2009年12月31日 星期四

演出場次皆已額滿! &交通方式提醒

謝謝各位觀眾熱情支持!!
目前三場演出1/1(五) PM7:00 ;1/2(六) PM:700;1/3(日)PM7:00 場次訂票皆已額滿!
即刻不接受訂票
如果有觀眾來不及訂票的
請於現場排隊購票
我們將於六點四十開放現場觀眾購票入場

以上三場演出
當天四點四十與五點皆有導覽及展覽活動
歡迎大家踴躍參加!

因停車位有限(院內不開放停車)

當天請盡量搭乘大眾交通運輸工具

有開騎車來的觀眾請於山下找停車處

附近停車場為迴龍院區的付費停車場
一小時30元
有定點志工指引

2009年12月30日 星期三

2009年12月28日 星期一

[訂票截止倒數兩日!]1/1及1/2場次已額滿!

感謝各位觀眾對惡之華的熱烈支持!!
目前1/1(五)pm7:00 及 1/2(六)pm7:00 場次 皆已額滿
不再接受以上兩場的訂票。

1/3(日)pm7:00 加演場
歡迎有意觀賞的觀眾踴躍預定1/3的場次!

訂票方式:12/30之前註明姓名/電話/場次/張數
 E-mail至asiabaroque2009@gmail.com
洽詢電話:0980-432-319 凡訂購十張以上享360元團票價優惠,但需預先付款。

2009年12月25日 星期五

[快報!!]2010/1/3(日)晚上七點熱情加演!開放訂票!

感謝各位觀眾的熱情支持!!
目前2010/1/1(五)與2010/1/2(六)的場次已呈現額滿狀態

我們決定在2010/1/3(日)PM7:00再加演一場!!
即刻起開放觀眾訂票!
訂票方式:12/30之前註明姓名/電話/場次/張數,
E-mail至asiabaroque2009@gmail.com
洽詢電話:0980-432-319
凡訂購十張以上享360元團票價優惠,但需預先付款。

2009年12月24日 星期四

秦‧Kanoko&黃蝶南天舞踏團影像展(2009/12/30-2010/1/2)

秦‧Kanoko&黃蝶南天舞踏團影像展在樂生同步上場!!
歡迎大家前來觀賞《惡之華》的演出之際
空閒時可以至樂生療養院的大屯舍觀展
展覽時間:2009.12.30-2010.01.02 am10:00-pm18:00
展覽地點:樂生療養院大屯舍

2009年12月23日 星期三

惡之華排練照出爐!!

座位有限,請盡量提早預定!!
訂票方式:12/1-12/30之前註明姓名/電話/場次/張數,E-mail至
asiabaroque2009@gmail.com 洽詢電話:0980-432-319
凡訂購十張以上享360元團票價優惠,但需預先付款。
攝:陳又維攝:陳又維     攝:陳又維       攝:陳又維
攝:陳又維    

2009年12月21日 星期一

<惡之華>第二波edm!


【交通方式補充說明】:
停車的空間位於新大樓急診室前收費停車場,一小時收費30元
因停車空間有限,請大家盡量搭乘大眾交通運輸工具喔!
到達樂生門口,會有志工引導。

惡之華與樂生院的「接!」

by馨文2009.12.9
 (攝:陳又維)
惡之華開會的時候,Rika很鄭重的向大家道歉,因為第一版DM上頭出了錯,寫成「樂生的運動結束」。她道歉,因為她已瞭解,沒有結束,而是要「過去、未來、接」,就像惡之華的表演一樣。講的時候,雙腿併著跪在地上說話的Rika,右手向右輕輕一捏,代表「過去」,左手一捏,代表「未來」,兩手在中間相碰,吐出個字,「接!」。

所謂「現在」,不就是個「接!」嗎?
2008年12月3日,我們和藍阿姨一起失去貞德舍。
那天,大家把貞德舍包圍起來保護,警察把人從地上一個一個拔起丟上警備車。人清空後,門外恢復寂靜,貞德舍裡頭,燈突然暗下,斷水斷電。寂靜中,警察撞門,每一扇門都在砰砰發響,警察拿電鋸鋸門,鎖發出尖銳的噪音,最後,警察破窗而入,藍阿姨趴在代步車上失聲痛哭。我們都記得,那天陽光很強、很刺眼。
從那之後,我們並沒有死亡。圖書館建立了起來、樂生社區學校的孩子們滿山遍野的跑著,藍阿姨在新處所掛上貞德舍的老招牌,種起蕃薯葉、茄子、紅菜、小黃瓜……一年來,藍阿姨經歷跌倒、小中風住院、又康復起來;林卻阿嬤也經歷跌倒、碰破頭、失去聽力、慢慢恢復了;呂阿伯曾經心臟無力昏倒、發現肝癌、住院,又出了院;李會長也病倒又站了起來。彷彿,希望在陽光下發芽,沒有什麼過不去的。
然而,一年後的12月3日,陽光燦爛,微微有風的平靜裡,我發現,住在朝陽舍的翁月阿嬤已經過世了,本來硬朗的楊榮發伯伯也陷入昏迷…...

我想起,2005年那年夏天。那時,每一天都有強制搬遷的危險,朝陽舍搬得只剩翁月阿嬤一人,我們一票人每天排班住朝陽舍,人少的時候像守衛,人多時像社辦。也實在說不上誰在陪誰,一起用廁所,共用洗澡間,一陣子後阿嬤終於忍不住拉開嗓門大罵:「嘛不知誰不規矩,查某的瞇啊,用完毋丟掉。」「便所用完嘛毋關門!」「啊,這群嬰仔,男生女生睏一間,啊那不行!」
我也想起,2008那年冬天,老是騎哈雷機車出門找相好的楊榮發伯伯因為肺癌末期,已經說不出話來。每當問他:「還好嗎?」他總吃力地從喉嚨深處擠出驚人的幾個字:「還 能 活」。儘管如此,楊伯伯仍然買了全新的音響設備,每天聽重金屬、搖滾舞曲。當整個老屋子隨著重低音而輕輕震動,他哈雷機車般的生命力,彷彿又再度穿過已沙啞的喉、壞了的肺,回到體內。
那一天,我們拿了搖滾音樂到加護病房,給昏迷的他聽點音樂。我很傷心,聽音樂時他的眼皮動也沒動一下、心跳與血壓完全沒有改變。像是,靈魂已經鑽進了身體底很深很深,連重金屬也穿透不了的地方。
我多麼希望,他們能永遠永遠不離開。
Rika說,在日本河岸邊有種地方稱為「惡所」,是遊藝人、乞丐、娼妓、「化外之民」聚集的所在,「好男」、「好女」也進去。講的時候,中文表達很吃力的Rika,又比手劃腳起來:她右手捏一下,說「好男」,左手捏一下,說「好女」,指頭們相碰,併成小山尖,一同往前方指去,吐出動詞,「進去!」。像咒語,對著曾在樂生戰鬥的我們,「好男、好女、進去」。
佔據樂生這樣的一個地方戰鬥,是勢必得踩在生者與亡者,毀壞與新生之間的那條臨界線上的。我想起戰鬥的初期就投入的許麗明阿伯,2004那年冬天病倒了,插著呼吸器在病床上,他還不忘問:「開會的時候沒看到我,學生干有問起?」「有啊,當然有!」。我們當然也不可能忘記已經拆掉的貞德舍,還有林卻阿嬤在貞德舍泡的最後一杯牛奶。還有大樹下那塊孕育希望的場所。
在樂生這樣的一個地方戰鬥,在這個生死交「接!」的處所,我們勢必得學著與生者、亡者、雖死猶存者、死而復生者、雖生猶死者、醉生夢死者、以及「未生們」共生共存,在荒地、廢墟、亮晃晃的廢墟與欣欣向榮的荒地上頭結盟,開出新的花朵。
Rika將在一年初始的樂生院納骨塔旁演出「惡之華」,我很誠懇的邀請大家前來赴這場生與死、過去與未來、希望與絕望、荒蕪與華麗交「接!」的盛宴。接下它,與生者、亡者們一同創造過去與未來間一個連著一個的「接!」。

2009年12月15日 星期二

2009年12月14日 星期一

惡之華演出場地

本次惡之華演出的地點位於樂生療養院  新納骨堂草坪    特設帳蓬
 (按:原納骨塔因工程緣故被拆遷,許多樂生亡靈也被迫遷於新納骨堂)
(攝:陳又維)(攝:陳又維)(攝:陳又維)
如何在這個空間呈現惡之華
敬請期待下回分解......

2009年12月8日 星期二

【快報】惡之華團體購票優惠!

凡購買十張以上
則享團體票360元優惠!

凡購買團體票者
請預先付款
購票洽詢專線:0980-432-319
洽詢E-mail :asiabaroque2009@gmail.com
訂票請註明 : 姓名/電話/場次/張數
來信訂票後
會有專人聯繫付款事宜

2009年12月7日 星期一

訪談 樂生院保留自救會李添培 會長

採訪:秦 kanoko,賴澤君 整理:康雅婷 



入院

民國38年,我是15歲的小孩子,什麼都不知,憨憨的。考到花蓮中學,我還是憨憨。初初進入才知痲瘋病可怕,看到舊患者鼻塌、腿斷。到診療室看到屍體,他的腿被鋸掉了,看過去像是骨頭的兩個孔,還有神經目…我第一次接觸到「地獄相」。

我在心裡想要治療,每個禮拜二、五治療,和阿姐的同學阿宋仔一起在這裡,他很疼我,我來他就跟我說一些事,我去幫病人敷藥、認識醫生、接觸患者,這段期間也有所成長。

  患者有很多種,有的是一進來就看破了,覺得病不會再好起來;醫生說一定會好,說以後可能會有新的藥。像是有位現在已過世的盧進主(?),他做日本料理很厲害的,有些東西醫生說不能吃,他都叫我吃。他說:「不會好的啦,要好就得等從後面的那個煙囪出去時。」意思就是這一輩子都別想離開,想要離開除非等死掉了化為雲煙,從煙囪散出。

死亡

看到死亡,是在當時的禮拜廳,送別式的途中很莊嚴,院長、護士長、總務室、指導員都有出來,患者和其他人分離,坐在前面。桌台前面放水果,後面是棺木,棺木由四片板作成蓋子,屍體放在像是曬米粉的竹篩子上,用棺木蓋蓋著。死者的手、腳、頭的部份有時候晃下來看得到,很恐怖。如果是佛教徒就有念經,靈骨塔後面有火葬場,是露天火葬場,棺木蓋拿起來放旁邊,稻草或草袋蓋在屍體上面,灑上石油燒,我又多看了一眼。

  有人說(屍體)燒了會彈起來,因為神經遇到火會緊縮。也聽說有(屍體)因為下雨而燒不透,被狗咬去頭或腳。燒完隔一天會去撿骨,撿回來放在禮拜堂;每年農曆七月十五,再送到靈骨塔,就永遠在那邊,早期家屬都沒有拿走,死掉就放在這裡。

納骨塔

  裡面有日本人,包括沖繩、九州等地。前面是牌位,後面用大桶裝,直到四十年前才有一甕一甕裝起來。這裡的奇怪故事是:有一個住在高雄寮的男子,她的妻子死掉之後,他很煩腦,常常到納骨塔那邊坐著,聽他說常聽到太太在講話。好像是太愛一個人,「太太在那裡,還怕她被占便宜」,大約這樣經過很久。現在年紀大了,之後搬到新大樓,就很去了。所以,納骨塔怎麼可以讓他拆,(是院民精神寄託所在)尤其是自救會呂副會長很保護那裡。

結婚

比較有趣的是講到結婚。在那時候,只要有女生(入院)男生都在妄想,女生有的有男人,要等到家裡的男生再娶,或是離婚才可以再嫁娶。男女在一起,男生要負責吃穿,伙食費給女生當私房錢。以前有一個鄭石生和阿桃,石生的家裡面生活很好,要去迎娶有打戒指;結婚那一天,大家拿著喇叭、鑼敲吹打,阿桃的臉有化妝,拿著石生送她的新衣服,提著包裹從竹仔寮走到台南寮,大家會吃湯圓並給予祝福。

過來就現在化了,基督教徒會穿新娘裝。結婚時叫做「茶果會」,病房自己佈置。我是佛教徒,在五十八年結婚,也是用現代式的婚禮:請人照相,女生穿新娘衣,還有花童;當時我太太的師父,和另一位法師為我們證婚,以大和舍(現在的大同舍)做新娘房。

禧一舍是結婚的病舍,還有雙愛舍。民國四十幾年,院長陳宗縈怕患者結婚過多,決定誰公證結婚就得要先結紮,不然要扣米菜錢。當時,在樂生院結紮的人很少,有時是犧牲男生。聽他們說,上開刀台前,手腳會綁起來,被脫衣、剃毛會怕,有的護士殘忍,如果男性勃起,會拿著帶子打他,好像意思是「苔哥病的人還想結婚,現在要給你結紮了你還這樣」男性感到很屈辱。

也有女人沒有結紮,結果把嬰兒生在廁所裡,嬰兒後來死掉了。聽說日據時代指導員、護士會把嬰兒浸到消毒水裡讓他死亡,再泡福馬林做標本,放在工友辦公那邊;有一次放標本的罐子打破了,很多老鼠跑去吃,結果死了不少老鼠。

  男女在一起,生下小孩,基督教會本來收留,後來承受不了,患者要自己承擔,有些小孩給了社會人士。醫院不要我們生,要我們結紮,不這樣會暫停伙食費,我、秀智、阿彬的母親,是最後一批生子的。

生子

說到生孩子的故事,有一位金門人阿宣,住大和寮角間,她生很多個,生最後一個的時候是在順月,當時大家擔心叫不到護士。有一天在放電影,都沒有人在,在房間旁邊突然聽到娃娃的哭聲,原來是阿宣把小孩生下來了;阿宣沒有手指,可是她一個人生產、斷臍、把小孩洗乾淨,母子倆一起睡覺,很奇妙。

 我生小孩,也擔心他們找麻煩,病人要結紮,所以我自己到台北醫院。當時太太產期過了兩天還不生,最後才剖腹生。我們的經濟壓力大,孩子那麼小,一個月要三千,我們菜錢才幾百塊,(民國六十八年時米菜錢),所以人生再苦還是要踩過去;至於榮民,院方對於榮民的菜錢沒有辦法扣,那時候女生都喜歡嫁榮民。

  當我們發燒,或病情發生的時候,在小孩一到三歲時,都不敢摸,除了給他們注射預防針之外,也有吃百分之十的DDS,患者自己實驗,把小孩照顧得很好。等到小孩上幼稚園,有的鄰居、或是醫生的兒子也同樣大,他們會排擠我們的小孩。在小孩教育的方面,我希望自己的小孩讀醫學院,可以為患者服務;不過院內的小孩培養到上大學的不多。

現在

  我喜歡住這裡,因為環境和心成一體,身體變化不大、壓力不大、樹木多所以氧氣充足,而且住在這裏的院民形成一種互助系統。


(原文出處:海筆子通訊 2006.8.6)

《惡之華》創作自述(日文版)

段々おりてゆくよりほかないのだ。飛躍は主観的には生まれない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある。メフィストにとってさえそれは「異端の民」だ。そこは「別の地獄」だ。一気にはゆけぬ。                                  ー谷川雁ー


                                         (2006<天然之美>,陳又維攝)

台湾人の中で、太平洋戦争末期の沖縄戦での戦没者慰霊碑を訪れた方がいらっしゃるだろうか。二十万人もの戦没者の名前の中に、十数名の台湾人の名前が刻まれている。あいうえお順に並んだ一番目に刻まれた名前は、実に『阿乞食』である。その人物の「生業」からそう呼ばれていたのか、或は、その人物の死を記憶した人が後から名付けたのかはわからない。名前の上に「阿」をつける呼び方は日本の習慣には無いから、おそらく台湾人の間で呼ばれた名前だろう。その名前は沖縄人の戦死者とともに、沖縄の海を見渡す高台の、幾重にも並ぶ長い御影石の上に刻まれている。



その手前には、強制連行され沖縄で亡くなった三万人にのぼる朝鮮人の慰霊碑が、朝鮮の墳墓をかたどって建てられている。戦没者のなかには朝鮮人従軍慰安婦も多く含まれる。
二十万人近い沖縄戦戦没者の中から、たった一人の人物の名前にこだわり、その人物を取り上げることにどれほどの意味があるのか、私自身わからない。そして、その事を知らされる台湾人の方々は、およそ良い感情を抱かないだろう。その感情を逆撫でしてまで『阿乞食』の死を掘り起こすことは間違いかもしれない。しかも、掘り起こすと言っても具体的にその人物を知ろうということでもない。しかしながら『阿乞食』に取り憑いた私は、取り憑かれたも同然で、その名前に導かれ歩き出してしまったようだ。


沖縄は中国と日本の両方と朝貢関係を結ぶ琉球王朝であった。1871年に沖縄の宮古島の住民が台湾南部に漂着し、先住民と衝突する「牡丹社事件」が起こった。明治政府はこの事件を利用して清政府と交渉し、琉球の日本領有を認めさせた。まず、琉球国を廃して琉球藩とし、ついで1879年に兵を琉球に侵入させ沖縄県を設置した。琉球はこのときより日本の本土の一部分となってしまった。日本がヨーロッパ帝国主義の行列に身を置こうと躍起になっていた時代である。


『阿乞食』が台湾海峡を渡ったのは台湾の日本統治時代だと思うが、『阿乞食』はどのような経緯で沖縄にたどり着いたのだろうか。また沖縄の人々とどのような関わりをもったのか。更に乞食という身分で戦時下をどう生き、そして亡くなったのか。
沖縄は太平洋戦争で唯一地上戦の戦場となった。「鉄の暴風」と称される米軍の砲爆撃で二十万人近い死者をだした。島民の三分の一が亡くなったことになる。敗戦から1974年の返還まで、沖縄はアメリカの占領下に置かれる。本土復帰後も米軍の駐留により沖縄の全面積の10.7パーセントがが米軍基地になり、「基地のなかに島がある」状況である。しかも、日本の米軍基地の75パーセントが沖縄に集中している。 

沖縄は近代日本の国民国家の枠に組み込まれて以来、いまも国家の暴力に晒され続けている。
近代以前、乞食は「生業」として成立し、それを支える『悪所』が存在していた。

古代から芸能の主たる担い手は、土地を持たぬ下層の民だった。吉事の到来を祈る「祝言人」と呼ばれそれにはまた“乞児”の字があてられた。「祝言人」には、神に代わって祝いの言葉を述べる人、門口に立って食を乞う人の二つの意味が同時に含まれる。

中世になると、芸能は寺社と深い関わりを持つ。寺社の境内は芸能興行の場所となり、有名な寺社は傘下に芸能集団を抱えていた。仏や神の功徳を称え、信仰の道を説くという宗教的な名目を表看板に、社寺や仏像の建立・修繕のために金品を募る「勧進」興行として行なわれた。町域では、素性の分からぬ漂泊の「よそ者」と排除されることは目に見えていたので、しだいに「河原」が常設の興行地になっていった。「河原」はまた、古い時代から死者の埋葬地であり、葬送が行なわれるので俗世と冥界をつなぐ境界とされた土地だった。芸能者が「河原乞食」と呼ばれる由縁である。

近世に入り『悪所』が形成されていった。江戸時代では、遊女や芸能者を、社会秩序から外れていることを意味する「制外者」と呼んだ。「制外者」が活躍する遊里・芝居町・非差別の集落を『悪所』と呼んだ。『悪所』は近世の身分制度で区分けされた居住区とは違った、一種特異な都市空間として発展する。身分の上下を越えて、アウト・ローを含めて誰でも出入りできる特異な場であり、地縁的な共同体関係とは無縁な、非日常的な空間であった。そして、境界性・周辺制を帯びた地域で「混沌」が増殖し、遊女があこがれの的になる人倫秩序が転倒した場である。『悪所』には、制度化された「秩序」を破壊し、内側から既存の体制を突き崩していくさまざまな要素が集積される、反権力・反体制の砦となる可能性があった。

明治政府は、全国的な戸籍制度をつくるにあたって、非差別民を平民籍に入れた。1871年公布の賤民解放令である。しかしその際、芸能者や漂泊民などの、戸籍制度の埒外にいる「流民」を徹底的に取り締まった。その時から一番厳しい排除と差別の歴史が始まる。


私たちが3年前に引き続き公演を行なう楽生院療養所は、近代に入ってから国家が進める近代化ゆえ、ハンセン病に対する誤った政府の対策で、半世紀以上に渡ってハンセン病患者の排斥・隔離が行なわれて来た場所である。院民にとっては過酷な排除と差別の歴史であるが、その場は『悪所』的性格を合わせもっていたのではないか。地下鉄路線の拡張に伴い、院民の居住区の大半が取り壊された。自救会が身体を張って守ってきた抵抗の象徴であった納骨堂も、山ごと削り取られ平地にならされてしまった。数年に及ぶ抵抗運動は多くの学生、労働者、子どもと母親たち、知識層や表現者を動員して行なわれた。この多様性・混沌が許されることこそが現代の奇跡である。それゆえ、反権力・反体制の砦としての楽生院の『悪所』性を物語る。楽生院の居住区の保持を目的に行なってきた私たちの表現行動は、砦の大樹を失い一つの抵抗の形を終えた。最後の砦は崩されたように思われるが、わたしたちは自らを制度や体制の中に切り縮め、飼いならされる必要は無い。今や最後の砦は自らの身体にある。この貧しい身体を〈悪〉の住処とし、その野辺に〈悪の華〉を開かせよう。踊り手の身体が、あの世とこの世をつなぐ河原場となる。


公演会場は、真下にざっくりと削り取られた楽生院の旧居住区跡を見下ろす、山の上に新しく建てられた納骨堂の横である。この八年間で150名もの院民の方々が亡くなった。亡くなってからも新納骨堂への移住を余儀なくされた方々の魂へ捧げるべく、台湾の奉納芸能の形式に近づきたいと考えている。死者の参列は必然である。心してお集り頂きたい。とは言え生者にとっては祝祭の空間である。にぎやかに執り行いたいものである。


今年の台湾の中元節に、友人の導きで初めて“放水燈”の行事に参加することができた。突然の大雨にかかわらず、海に放たれる燈籠と、海岸に打ち寄せられた白じろとした流木が対照的であった。燈籠は死者の魂に捧げられたが、流木は死者の白骨そのもののようであった。沖縄・台湾が結ぶその弧の内海に沈むおびただしい数の死者を想った。ここからつらなる島で眠る『阿乞食』を想った。

2009年12月3日 星期四

海筆子企劃【亞細亞巴洛克Ⅵ】亞細亞巴洛克10周年紀念公演

秦Kanoko 黃蝶南天舞踏團 《惡之華》

• 演出時間:
o 2010年1月1日 (五) 晚間 7:00
o 2010年1月2日 (六) 晚間 7:00
從公車站牌至演出場地步行約需30分鐘,請於六點半到場

• 院區導覽:
2010年1月1日、1月2日下午4:30樂生門口集合

• 演出地點:
樂生療養院 納骨堂旁 特設帳蓬(台北縣新莊市中正路794號)

• 入場說明:
o 本演出由『黃蝶南天舞踏團』獨立製作,請觀眾準備400元的紅包贊助演出。
o 演出前30分鐘開放入場。
o 訂票方式:12/1-12/30註明姓名/電話/場次/張數,E-mail至
asiabaroque2009@gmail.com 洽詢電話:0980-432-319
o 每場座位有限,請提早預訂
o 傍晚山區溫差大,敬請多添衣服。
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• 交通指南:
o 無車族:捷運西門線至西門町站6號出口出站轉635公車、捷運淡水線至中山站出口出站轉 636公車;或板橋-新莊-楊梅的臺北、三重、首都、新竹和桃園客運;桃園-新莊的桃園客運、基隆-中壢的國光號、在樂生療養院站下車(站牌就在院門口,門口有指標以及志工引導。)
o 有車族:機車、汽車-由省道台一甲往南過輔大後約3公里由中正路746巷(橡木桶旁)進入。 (進入樂生院後,請配合志工的引導停車)

更多情資請見:惡之華網站http://asiabaroque2009.blogspot.com/
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舞者:秦Kanoko、李薇、許雅紅、林宜蓉、曾筱光
現場音樂:黃思農

開場樂師:黃緣文、段惠民
火舞指導:廖柏昇
製作:黃蝶南天舞踏團
製作助理:張芳綺、黃雅慧
舞台監督:瓦旦塢瑪
舞台製作:許宗仁、遠藤弘貴、櫻井大造
舞台助理:段惠民、胡仰中
舞台美術/道具:柯德峰、黃馨玉、李立邇、羅淵德
燈光:鄒雅荃
燈光助理:林君亭
音效執行:李昀

PA:小V
服裝:黃蝶南天服裝部
前台:曾令秀、陳惠善
公炊總管:吳啟新
宣傳:球球
票務:黃雅慧
海報設計:朱家聖
影像紀錄:陳芯宜、廖敬堯、蘇美玉、倪武宏
平面攝影:陳又維
翻譯:林于竝、宗田昌人


協力:呂德昌、王墨林、鍾喬、鴻鴻、陳憶玲 、姚立群、傅裕惠、賴澤君、小李飛櫻、
張馨文、連長、張祐誠、林志堅、朱正明、余世華、尤苡人、林秀美、王思靚、黃云起、
李佩綺、巫宛蓉、褚盈均、黃淥、大喬、阿妮塔、朱小P、詹筑涵、陳昶昇、許智昕、彭剛、鄭卜榮、葉齡雅、西北、孫毓宏、采芯、鄭嘉林、柯蕙玲、江政樺、張孟芸、王沛汝、
余孟翰、張美齡、黃鏡丞、宋明璣、吳修和、劉曉嵐、佑祥瓷器、德永真紀子、段喻、
沈德愚、微羽、羽衣 、羽生、安妤

特別感謝:樂生保留自救會、IDEA Taiwan、青年樂生聯盟、樂生博物館、樂生社區學校 、差事劇團、身體氣象館、榮峰畫室、野草莓資源管理組、水田部落、野戰之月海筆子、 北京帳篷小組、有夠亮有限公司、福麟布行、永勝帆布公司、龍伸舞台、 辛苦之王出版社、Sour Time腳踏車廚娘的店

2009年12月2日 星期三

《惡之華》創作自述


文/秦Kanoko 日文翻譯/林于竝


只能一步一步地下降,在主觀上飛越是無法產生的。往下、再往下,下降到根部的根部,朝向花不開的地方,朝向被暗黑充滿的所在,在那裡,有萬物之母,有存在的原點,有原初創發的能量。即使對於梅菲斯特而言,都是「異端之民」,那裡是無法一次抵達的「另一個地獄」。
­­­ —­­­—­­­—谷川雁­­­—­­­—­­­—

(2006 <天然之美>,陳又維攝)

有台灣人曾經到訪過太平洋戰爭末期沖繩戰役的戰亡者紀念碑嗎?在二十萬人的戰死者的名單當中,有十幾個台灣人的名字被刻在裡面。依照日語五十音的發音順序,被刻在最前面的是一個叫做「阿乞食」的名字。是因為這個人所從事的「行業」?還是對此人有印象的什麼人,在他死後給他所取的名字?關於這點我毫無所知,但是從名字上的「阿」字來看,日本人並沒有取這個名字的習慣,所以這個名字應當是由台灣人所取的吧!這個名字與戰死的沖繩人一起,被刻在遠眺沖繩海面的高台,幾片重疊並排的花崗岩上面。

在前面的,是那些被強制徵調到沖繩,然後客死異鄉的三萬名朝鮮人的紀念碑,以朝鮮墳墓的造型矗立著。在這些戰死者當中,有不少是朝鮮籍慰安婦。

在將近二十萬的沖繩戰役死歿者當中,只執著於一個人的名字,並對那個人投注特別的關心,這到底有什麼意義,連我自己都不知道。而且,對於台灣人而言,這應當不是件令人愉快的事情。無視於台灣人的感受,執意挖掘出「阿乞食」的死,這件事本身也許是個錯誤。更何況,雖然說是挖掘,但卻不見得會讓我們對於這個人物能有更具體的了解。但是,「阿乞食」佔據了我,或者說是我佔據了「阿乞食」,我開始追尋著這個名字的足跡,一步步地邁出腳步。

沖繩在原本是琉球王朝,與中國、日本都締結有朝貢關係。1871年沖繩的宮古島居民漂流到台灣南部,與台灣原住民發生衝突,爆發「牡丹社事件」。明治政府利用這個事件與清朝展開談判,促成清朝承認日本對於琉球的領有權。日本首先廢琉球國改立琉球藩,最後終於在1879年派兵入侵琉球,設置沖繩縣。琉球從此成為日本領土的一部份。這是在日本開始崛起,企圖加入歐洲帝國主義行列的時代。

「阿乞食」橫渡東海,應當是在日本統治台灣的時期。「阿乞食」在怎樣的情況下來到了沖繩?以及與沖繩的人們產生怎樣的關係?還有,乞食這種身分在戰火下如何活著?以及如何的死去?

沖繩是太平洋戰爭當中唯一的陸上戰場。有「鐵的風暴」之稱的美軍砲擊造成了約二十萬的死者。算起來島上居民三人當中就有一人在砲擊當中死去。從戰敗到1974年回歸為止,沖繩都在美國的占領之下。在回歸日本之後,因為美軍的駐軍沖繩全部面積的10.7%被佔用為美軍基地,正如「島在基地當中」般的情況。而且,日本全國的美軍基地中75%集中在沖繩。自從沖繩併入日本國族國家的框架之後,就一直暴露在國家暴力當中。

在近代以前,「乞食」被當作是「正當的行業」,在其背後的,是叫做「惡所」的場域,做為他們的地盤。在古代從事藝能表演活動的,主要是一群沒有擁有土地的下層民眾。祈禱好運來到,被稱做「祝言人」的,就是被冠上「乞兒」這個字眼。所謂「祝言人」,包含著代替神明說出祝福的話語的人,以及站在門口乞討食物的人,這兩個雙重意義。

到了中古時期,藝能開始與寺廟產生緊密的關係,寺廟神社成為藝能公演的場所。許多有名的神社寺廟擁有自己的藝能表演團體。以讚頌神佛的功德,宣揚信仰的道路等宗教活動做為表面名義,藝能團體為了興建廟宇或修繕佛像等名目之下舉辦稱做「勸進」的募款表演。因為在市街上,這些身分不明居無定所的「化外之民」顯得太過招搖,所以「河原(河岸)」成了常設性的藝能表演場所。自古以來,「河原(河岸)」也是埋葬死者的地方,以及喪禮儀式舉行的地點,因此被視為與冥界交會的土地。這也是藝能表演者被稱為「河原乞食(河岸的乞丐)」的原因。

進入近世時期之後『惡所』開始形成。在江戶時代,娼妓或者藝能者,因為他們身處於社會秩序之外,所以被稱為「制外者(化外之民)」。這些「制外者(化外之民)」所活躍的花柳巷、戲棚以及賤民聚落等地方被稱為『惡所』。『惡所』與近世時期以身分制度所區隔的居住區域不同,獨自發展成為特異的都市空間。那是一個跨越身分上的限制,包括異端份子在內,所有的人都可以自由進出的特殊場域,與當地的社區脈絡無關的,非日常的空間。以及,在這帶著過渡性與邊緣性的區域當中,「混沌」不斷增殖,妓女成為崇拜的對象,人倫秩序倒轉。在『惡所』當中,制度化的「秩序」被破壞,從內部瓦解現有體制的各種因素被聚集累積,在這裡蘊藏著成為反權力、反體制堡壘的可能性。

在明治政府制定全國性戶籍制度之際,從前的賤民階級同時也被納入成為平民籍。1871年公布賤民解放令,同時也對於藝能者以及漂泊民等,在戶籍制度之外的「流民」進行徹底的取締。從此時開始了最嚴格的歧視與排除的歷史。

(2006<天然之美>,陳又維攝)


承接三年前的表演,我們即將進行表演活動的樂生療養院,是進入現代之後,國家為了推進現代化,在對於漢生病錯誤的政府政策底下,長達半世紀以上對於漢生病患者進行排斥與隔離的場所。對於院民而言,那裡是殘酷的排除與歧視的歷史,但是,這個地方不正是最合乎『惡所』的性格嗎!伴隨著捷運路線的擴張,院民居住的區域大部分都被拆除。自救會曾挺身捍衛,象徵著抗爭的納骨塔也被從整個的山丘夷為平地。長達數年的抗爭運動動員了許多學生、勞工、小孩與母親們、知識份子或藝術家。這種多樣性與對於混沌性的接納是一種現代的奇蹟。這點道出了做為反權力、反體制堡壘的樂生療養院,它的『惡所』本質。我們以保留樂生院區為目標而展開的藝術表演行動,在失去做為堡壘的大樹之後結束了抵抗的形式。雖然最後的堡壘似乎已被瓦解,但是我們仍然不需要將自己屈身於制度或體制之中。最後的堡壘就在我們自己的身體當中,讓自己貧乏的身體成為<惡>的居所,在野地當中開出<惡之華>。舞者的身體,是連結著今世與彼岸之間的河岸。

演出所舉行的場所,是在山上新建的納骨塔邊,在腳下俯看現在已被削為平地的樂生院舊居住區的遺跡。在這八年當中有一百五十位院民死去。那些雖已死去,但是尚未能夠移住到新納骨塔的院民的靈魂,我打算將這次演出獻給他們,作為類似台灣傳統廟會的祭典儀式。死者們當然也會來參與,由衷地歡迎他們的聚集。對於活著的人而言,但是這依然是個祭典的空間。我希望可以很熱鬧地來舉辦它。

今年的中元節,在朋友的帶領之下,我初次參加「放水燈」的儀式。儘管一場突然的大雨,流放到海上的燈籠,與被打到岸邊的白骨般的漂流木形成明顯的對照。燈籠是獻給死者的靈魂,而漂流木是死者的白骨。這讓我想起葬身於連結沖繩與台灣的這個弧狀內海當中的無數的死者。也讓我想起這個點點相連的島群,那位安眠在島群彼端的『阿乞食』。

日本舞踏的起源與發展

撰述/球球‧校訂/林于竝

對習慣於欣賞傳統唯美舞蹈表演的觀眾而言,第一次觀賞日本舞踏,多半會對舞踏的表演形式大感震驚,甚至產生不舒服的異樣感受。的確,面對一群光頭裸體、身塗白粉、奇裝異服的舞者,在舞台上暴烈吶喊,並配合扭曲變形的肢體語言,呈現一幅幾近原始的畫面,不禁令人懷疑「這是舞蹈嗎?」‧‧‧
(編舞家秦Kanoko,陳又維攝)
對習慣於欣賞傳統唯美舞蹈表演的觀眾而言,第一次觀賞日本舞踏,多半會對舞踏的表演形式大感震驚,甚至產生不舒服的異樣感受。的確,面對一群光頭裸體、身塗白粉、奇裝異服的舞者,在舞台上暴烈吶喊,並配合扭曲變形的肢體語言,呈現一幅幾近原始的畫面,不禁令人懷疑「這是舞蹈嗎?」大部分的觀眾對日本舞踏荒誕、醜惡、暴力、色情的表現形式感到不安,無法在舞踏表演中看到所謂線條優美、輕盈彈跳的「舞蹈技巧」,有些人因而不太能夠接受舞踏這種前衛的表演。然則,儘管如此,無法否認的是,舞踏藝術確實是二十世紀晚期現代舞蹈藝術主要的發展之一,其影響就如同早期的舞蹈大師瑪莎‧葛蘭姆〈Martha Graham,1894~1991〉、瑪麗‧魏格曼〈Mary Wigman,1886~1973〉等人對當代現代舞蹈的影響,其殊異的表現形式,對全球表演藝術界造成極大的震撼,自八○年代起,日本舞踏風靡北美、歐洲各地,形成一股舞踏熱潮,各地所舉辦的國際藝術節、舞蹈節紛紛邀約日本舞踏團體前往演出。如今,舞踏已成為一種獨特而重要的舞蹈形式,在世界舞壇佔有一席之地。

曾於1994年應國立藝術學院之邀來台表演的舞踏宗師大野一雄〈OHNO Kazuo,1906年出生於日本北海道的函館,今年十月即將度過百歲大壽 〉認為舞踏表演的目的,乃在於呈現「靈魂的形式」,而這種來自靈魂最底層的動力,看似可怕猙獰,實則深深觸動生命的本質,與東方民族的農耕文化亦有著密不可分的關係。

自明治維新〈Meiji Restoration,1868〉以來,日本開始邁入資本主義社會,在市場經濟的支配下,一切以生產為中心的管理制度乃應運而生。國家透過家庭、學校、工廠、軍隊逐漸形成單一化的身體語言,不管是戰前的軍閥主義或戰後的株式會社文化,在在具體呈現市民社會理性、高效率、同一化的價值取向,而在這些價值觀的主導下,日本人的身體語言乃日趨同一化。

第二次世界大戰後,戰敗國日本處於一片慌亂之中,政府為了重建戰後廢墟與強化資本主義的生產體系,遂與美國簽訂美日雙方保安條約,允許美國軍隊進駐日本本土。日本政府此一決策,令舉國譁然,以東京大學為主的大規模反美示威抗爭此起彼落。美國的介入,代表一波現代化浪潮的湧入,造成日本政治、經濟、社會價值、人際關係的急遽轉變。日本知識份子在一片迷思當中,藉由文學、藝術來抒發反動意識。在六○年代,因學生運動而孕育出不少小劇場,如:鈴木忠志的「早稻田小劇場」、唐十郎的「狀況劇場、寺山修司的「天井棧數」等,都具有相當的影響力。文學家如:三島由紀夫、渋澤龍彥;攝影家如:細江英公;畫家如橫尾忠則、中西夏之,以及音樂家如:黛敏郎等人,當時都是站在反抗保守勢力的革新立場,支持前衛藝術的活動。此外,另有一群表演藝術家也從日本傳統舞踊和西方現代舞之間開始,探索日本人的身體美學,這就是肇始於一九五九年,由大野一雄和土方巽〈HIJIKATA Tatsumi,1929~1986〉創始的「舞踏」〈Butoh〉,又稱為「暗黑舞踏」〈Ankuku Butoh〉。

基於現代舞所持的精神內涵,及其反應現實動亂社會現象的使命;再者,更警覺於日本舞蹈漸漸受西方舞蹈影響而失去原有的風貌,有鑑於此,自1930年代起開始受到德國表現舞蹈啟發的大野一雄和土方巽,從這兩個背景訴求之中,發展出一套舞蹈的殘破美學,重新詮釋身體語言,藉此解放日本身體文化之原型,並試圖對日本皇權提出批判。由於舞踏的基本精神起於反叛,因此第一代舞踏的舞蹈風格傾向於最原始最暴戾的聲音與動作來傳播其藝術理念。身體權力的恢復、性與暴力的主題常為舞踏家用以表達其理念的重心;而舞踏所獨具的美學形式,暗示著其原創性與革命性的意識型態,例如:「全身抹白」一方面是將傳統歌舞伎中的假面化之意義,延伸到舞踏之對肉體的否定,專注於心靈的展露,另一方面,則是要把每一個人的差異性都抹掉,使人回歸自然、回歸單純;「光頭」象徵著脫離紅塵、重回母體的原胎;「性倒錯」,亦即「性別倒錯」,意為女扮男裝或是男扮女裝,則是對於現今社會男女角色地位被固定的反動,企圖尋找人性中同質且人人皆具的原始根性。

舞踏使日本人真正認識自己縮曲而有別於西方人的身體,再者,舞踏也展現了日本人戰後受屈辱的心情;因為「暗黑舞踏」所呈現的身體並不是西洋文藝復興時期所崇拜的黃金比例身體,而是戰敗後日本人的真實形態。舞踏沒有西方舞蹈那樣充滿外炫、自覺的力量,而是儘量把情感壓抑在四塊榻榻米大的空間之內〈此為一般日本人平均佔有的個人空間〉,對日本人而言,場地愈小愈能使身體縮曲,如此一來,才可以籠罩住靈魂。舞踏家並不認為身體是物理構造,相反地,他們是根據「感性」來展現身體,這樣的表演方式,令西方人感到不可思議。土方巽反對舞蹈只講究舞者漂亮舞姿的表現,相反地,他認為:舞蹈的目的,是為了用身體的知覺去體會反社會的解放感。因此,身體內部所深藏的欲求在土方巽的舞踏中就成為重要的哲學思想。為此,土方巽替舞踏找到了一個重要的精神狀態,就是一種由中心領域向外出走到邊緣的意識,用異質性的活力來顛覆一個宿命的日常規律,這種顛覆性的、異質性的活力來自於對自己肉體的確認。異質性的活力,誘使原本潛藏於肉體黑暗處的「色慾」〈eroticism〉,使其徹底地顛覆桎梏於程式化動作中的身體。

土方巽的肉體美學是從人的身體的兩股之間找到原點。農耕民族基於人對土地所懷有的神聖感,特別選擇下半身作為靈魂棲息之處。農耕民族的身體好像被種植在大地上的一棵樹,無論它長得再高大,它的根依然深植在土裡〈西方芭蕾舞的雙足,卻好像把身體從地上切除,讓身體拋向另一個時空的新世界〉。農耕民族的舞蹈與土地的關係既然如此密切,身體動作的流動是以營造人類實際地存在於環境之中的某種空間意識為主要走向,這個空間意識的產生是因為身體動作在流動之中,漸漸牽動內在肉體活動而產生心靈的恍惚意境,在它所支配下的表演現象,使一個表現身體與天地結合的心靈空間才得以實現。農耕民族的舞蹈有許多表現對大地的崇拜,原因即在於此。而倘若就地心引力來詮釋舞蹈,西方人以「向上跳躍」來抗拒地心引力,東方人卻以「下沉禪定」的哲學來解決地心引力的宿命。

承上所言,農耕民族認為靈魂棲息於下半身,然則,下半身並不是只指雙足而已,還包含了腹部這個部位。日本武士切腹自殺,就是基於古代解剖學,認為腹部是靈魂和愛情所棲宿之處的信念。腹部的交感神經中樞比心臟在精神作用上更敏感地受到刺激,記載中國氣功理論的古籍亦言「臍下腎間動氣者,人之生命也」。美國現代舞之母瑪莎‧葛蘭姆利用腹部至肛門這條經絡產生身體動作的伸縮作用,讓感情的表達深透著一股引出「色慾」的肉體慾望。土方巽亦是將身體重力集中於股間的生殖器部位,所以身體必須呈半蹲狀,雙足還要形成八字狀,身體在這樣的狀態中,感受到生殖器的存在,精神意識漸漸進入一種恍惚的情境之中,彷如莊子所提到的「輒然忘吾有四肢形」。土方巽說過,肉體的解放並不是來自一發不可收拾的情緒氾濫,肉體解放的真正來源,正是這種欲仙欲死的恍惚感。

土方巽還從種種的自身體驗當中,意會到自己的身體知覺所衍生出來的意象,這其實就是自己在觀照自己身體內部的一個小宇宙,而這個小宇宙只有將現實的時間與空間疏隔開來之後,身體才能通過夕陽移動的視覺感、風聲拂過耳邊的聽覺感,一點一滴地累積更為純粹的時間意識與空間意識。舞踏家在表演時必須有一個假想空間,也就是說,用一個心理空間來容納一個像是種植在土地上的樹木一樣的身體。舞踏的「動作」是在於細膩地將感知事物的過程一點一滴地表現出來,像風拂過皮膚的過程,在皮膚上立即產生知覺變化,形成自己身體內部的一個小宇宙,其時間是靜寂的,空間則是封閉的。

被稱為「舞踏之父」的大野一雄認為:舞蹈就是一種對「自己」或是「生命」極為珍惜的心情;當他跳舞時,不是使用頭腦,而是用「心」來跳舞。而生命的誕生必伴隨著死亡,生和死是共存的。就好像嬰兒在母胎中時是靠著胎盤藉由母親提供養分,母親以血肉之軀供養胎兒,胎兒每成長一寸,母親的生命力、生命期就消耗一尺。死而後生、週而復始,這是宇宙亙久不變的真理。隨著歲月消逝,肉體日漸衰弱,終至死去,但是,精神卻會不斷地往上提昇,「即使死去,我的精神仍將繼續跳下去。」一九九四年,時值八十八高齡的大野一雄如是云。

舞踏在一九五○年代末期興起,六○年代至七○年代這十年間,其發展卻停滯了一段時間。這十年間,在日本所形成的現代文明,已經不像明治維新時期那樣一面倒向西歐;雖然很多層面仍顯現「西歐意識」,但是相對地,「反西歐意識」也開始滋長。在兩派爭論之中,除了還在變革的開端時期看到一點西歐文化展開的影響力之外,真正的西歐意識已逐漸消失。尤其在戲劇和舞蹈方面,在繼承西方形式的背後,卻喪失了自然的表現及理性的追求。曾有人認為,日本戲劇和舞蹈在那十年之內根本是一個「鎖國」時代。

入七○年代,舞踏開始有了新的突破。1970年,土方巽創立「燔犧大踏艦」舞團,培育舞者,發表新作。土方巽認為舞踏只要把握現代精神,即使形式宣告死亡,舞踏的生命還是能夠繼續存在。1972年,原為前衛劇場演員的磨赤兒成立「大駱駝艦」,對於土方巽早期建立的舞踏美學,如:光頭、全身抹白、性倒錯、暴力等形式,大駱駝艦將它們視為舞踏的重要精神而維持下來,但磨赤兒並沒有陷溺其中造成形式美學的氾濫,他的理性使舞踏成為一首壯闊的敘事詩。大駱駝艦善於塑造火光十色的特殊景觀,以表現潛伏於文明社會的深層面貌;現在歐美等地掀起的舞踏熱潮,若說是大駱駝艦造成的,並不為過。

舞踏發展到了七○年代下半期,開始產生急遽的變化,也就是第二代舞踏的誕生。這時較引人注意的舞踏團體是1976年天兒牛大創立的「山海塾」。天兒牛大原為大駱駝艦的成員之一,曾學習芭蕾舞及現代舞,對劇場元素十分熟習,山海塾的演出,以優雅洗練、形式唯美著稱。山海塾試圖追尋在「解放」與「西化」之間的日本人的身體文化之造型。他們最著名的表演之一,是在都市摩天大廈頂端的邊緣,表演他們被繩子吊起到垂,緩緩下降到地面。全身抹白的舞者被逆吊的姿態,像子宮裡的胎兒;當舞者們隨著巍巍顫顫的繩子著地,意味著出世是一個受難的過程,他們似乎是在追求一個屬於宗教的境界。而其倒吊的身體美學,也暗示著在工業社會的急速變遷之下,人類所承受的高度壓力與極度孤絕。

1980年由大須賀勇創立的「白虎社」,總結了日本舞踏家們一直在精神層面上,探索日本人靈魂寄宿所在的問題。大須賀勇原來也是大駱駝艦的主要團員之一,1976年,他曾經環遊東南亞一圈,他聲稱此行是「舞踏行腳」。這段回歸日本文化的母體而使他再一次被重新孕育的經驗,使他在成立白虎社之後的舞踏精神,完全走上神秘、顫怖的祭典形式,而展現出一套獨特的表演觀,藉以面對當代的時空狀態,其鬼魅似的形貌乃是針對管理社會而展開的批判。

「白桃房」舞踏團是土方巽晚期身體美學之所寄託,其主要舞者蘆川羊子直接師承土方巽。白桃房的表演主要在喚起人們對大自然的關注,該團的舞踏家在表演時,常想像自己是枯草、樹木、風等自然界的生命狀態與現象。

值得一提的是,舞踏藝術除了在日本蓬勃發展之外,其概念在非日本語系國家已有所傳承。自從1978年舞踏被介紹到西方以來,例如:法國的瑪姬瑪漢舞團和陽光劇團,甚至德國舞蹈劇場大師碧娜‧鮑許〈Pina Bausch〉都受到舞踏某種程度的影響。這樣的影響為西方即將萎縮的表演藝術注入新血,即使連莎士比亞的古典劇和貝克特的現代劇,都被再度以舞蹈的概念繼續延伸,而從一個新的起點重新出發。

舞踏在舞蹈藝術中是屬於前衛的範疇,一種近乎極端實驗性的舞蹈表現。在日本,舞踏尚未能被完全接受,在日本,舞踏尚未能被完全接受,甚至被譏為荒誕荒誕、暴力、色情,但它卻以清楚的理念、大膽的風格,備受歐美身體藝術家矚目。從泛文化的觀點審視之,舞踏出自其本身非來自西方肢體的語言,源自真實的日本景象。舞踏以本土身體文化為骨架,以活生生的身體為素材,以身體的原質性構建動力,呈現當下情境的表演。當西方現代舞蹈漸漸走向後現代,舞踏以來自東方的獨特身體語言,呈現一片新穎的舞蹈視域。

一花一世界,一石一宇宙,暗黑舞踏所開出來的「幽玄之花」,充滿原始之美。這樣一朵現代的、東方的、內省的奇葩,喚醒現代人靈魂深處的愛慾。不同的文化孕育出不同的藝術,而各種藝術的堅持與風格,皆有其可貴之處。

秦Kanoko 創作年表

1964
出生於日本北海道的最北端利尻島

1988
加入以北海道小樽市為活動據點的舞踏團體「古舞族ァルタイ」(古舞族阿爾 泰), 師承舞踏家栗太郎。

1993
獨立發表獨舞作品《胡鬧》。

1994
以北海道為活動據點從事獨舞活動,並同時客串演出「古舞族ァルタイ」(古舞族阿爾泰)的舞作。
1995
成立「舞踏集團・維魯修卡」,發表舞踏作品《灰柱》。

1996
成立舞踏・音樂集團「極/線」。開始與詩人、雕刻家等進行聯合創作展演活動。


(編舞家秦Kanoko,陳又維攝)

1998
1~3月 參加菲律賓所主辦的第三屆「亞洲的吶喊」活動,並主持舞踏工作坊。
7月 於台灣主持舞踏工作坊,並於台北發表舞踏作品Body’s Garden。
8月 參加菲律賓所主辦的Asian Women’s Dance活動,並主持舞踏工作坊。


1999
4月 於美國主持舞踏工作坊,並於芝加哥公演舞踏作品Body’s Garden。
6月 客串演出「古舞族ァルタイ」(古舞族阿爾泰)的法國巴黎舞踏公演。
7月 於台灣的台北、台東、高雄主持舞踏工作坊,並於台北發表舞踏作品《蟲的寸法》。
12月 於日本北海道發表舞踏作品《酷愛蟲的公主》。


2000
2月 在台灣主持舞踏工作坊,並於台中公演舞踏作品《酷愛蟲的公主》。
5月 在台灣主持舞踏工作坊,並於台中東海大學公演舞踏作品《酷愛蟲的公主》。
6月 於菲律賓主持舞踏工作坊。
8月 在台灣台北與台南主持舞踏工作坊,於高雄公演表舞踏作品Body’s Garden,於台北公演舞踏作品《酷愛蟲的公主》。
11月 於日本名京都市公演舞踏作品《酷愛蟲的公主》。


2002
3月 於台北華山藝文中心發表舞踏作品《拼裝淨土》。

2003
4月 於台北的新寶島視障劇團,以視障者為對象主持舞踏工作坊,並發表視障者舞踏作品《目之獄》。

2005
1月 於台北創立台灣第一個舞踏團「黃蝶南天」,創團首演作《瞬間之王》。

2006
9月 於台北縣新莊市樂生療養院中山堂發表新作《天然之美》。

(2006<天然之美>,陳又維攝)

2009

12月 於台北縣新莊市樂生療養院納骨堂旁特設帳蓬發表新作《惡之華》。